日本では一般的に、ヨガを練習している人を「ヨギ」と言いますが、ヨガ的にはそれは誤りです。
実際の「ヨギ」について、「バガヴァッド・ギーター」第六章で、次のように語られています。
「ヨーガに登ろうする者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとっては、寂静が手段であると言われる。」
この記述で明確に区別されているのが、「ヨーガに登ろうする者」と「ヨーガに登った人」です。
では、その違いは、どのようなものなのでしょうか。
○ ヨーガに登ろうする者
ヨーガに登ろうする者が、いわゆる一般的にヨガを実践して、練習している人を指しており、このような人のことをサンスクリット語で、「サーダカ」といいます。
「サーダカ」とは、探求者という意味で、本質的な自分を求めて、ヨガの実践をしたり、ヨガの勉強をしている人のことです。
そして、「バガヴァッド・ギーター」では、そのような人にとって、自分をヨガの境地に導くのは、「行為」が手段であるとしています。
この「行為」こそが、「カルマ」と言われるもので、それは日常の仕事や人間関係、そしてヨガの練習など、すべてに当てはまります。
本当の意味でヨガとは、日常生活すべての行為が、自分を静寂に導くすべての手段であるとしているのです。
つまり、ヨガの観点である「自己の探求者」という視点を、日常の生活全てに取り入れるだけで、あらゆる行為行動が、ヨガになってしまうのです。
その時、ヨガとはマットの上での運動ではなく、生きることそのものが、ヨガとなっていくのです。
○ ヨーガに登った人
バガヴァッド・ギーターで「ヨーガに登った人」は、「静寂」が手段だと言っていますが、実は「ヨギ」とは、「ヨーガに登った」人のことを指しているのです。
そのような人は、常に自分の中に「静寂」を保ち続けられる人であり、別の言い方をすると「アートマン」という自己の本質とつながっている人を、指しているのです。
「ヨギ」とは、サンスクリットで「ヨーガ」という語幹に、「イン」 という、「~を持つ人」と言う意味の接尾語を付加した言葉です。
そして、「ヨーガ」とは、サンスクリットで「ユジ(yuj)」 という動詞の原型から来ており、「ユジ(yuj)」とは、「結合する」という意味になります。
「ヨーガ」と「イン」 という意味が結びついて、何か常に結びついてものを保有している人を指しているのです。
つまり、その結びつく対象が、「アートマン」である自己の本質です。
それ故に、そのような「ヨギ」は、そこから得られる「静寂」が、ヨガを実践していくうえでの手段となっているのです。
その意味で「ヨギ」とは、「アートマン」以外のものに対して、完全に執着を切り離している人のことを指しているのです。
そのことを本当に理解していると、気軽に「私はヨギです。」と言えないことに、気が付くでしょう。
そして、そこに向かうには、普段の生活の中で「自己の探求者」という視点を、ただ忘れてはならないとう「シンプルな結論」に導かれるのです。
もちろん、私もヨガを通じて、単なる自己探求者の一人として、今後も在り続けようと思います。
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