「初心忘るべからず」の真意
この言葉を知らない人は居ない程、日本人には馴染みのある言葉です。
毎年お正月や新年度が始まる時に、この言葉を思い出す人も居るでしょう。
しかし、誰でも知っているこの言葉の本当の意味を知っている人は、非常に少ないのも事実です。
一般的には、初心者の初々しさを忘れてはいけないと解釈されていますが、それは誤りです。
この言葉、室町時代の能の役者・世阿弥が、芸を極める為の心得を書いた「風姿花伝」に書かれている一文です。
最終的には、「花鏡」という本として集大成されています。
世阿弥は、当時一般大衆が神に捧げる踊り田楽を、幽玄(ゆうげん)を心とする能楽(のうがく)という芸術に高めた人物です。
その功績があり、日本の伝統文化として受け継がれ、世界的に有名な「能」文化があるのです。
その世阿弥が、役者の演技の心がまえを説き、役者が観客に感動を与える力を「まことの花」としました。
そしてこの「まことの花」を咲かせる方法を書いたもが、「風姿花伝」です。
世阿弥の言葉は、単なる能の世界ではなく、人生そのものをどのように生きるかについて、深い示唆が含まれている珠玉の言葉です。
具体的に、いくつか紹介すると以下のような言葉があります。
・秘すれば花
・住する所なきを、まず花と知るべし
・年々去来の花を忘るべからず
・時節感当
・離見の見
・陰陽の和する所の境を、成就とは知るべし
ここで大切なのは「風姿花伝」で言う所の「花」の意味です。
その真意は、「まことの花」さえ残っていたら老いて技は落ちても、芸力による面白さは生涯消えない。
つまり、人生において一番大切なのは、「まことの花」を生涯にわたって咲かし続けることなのです。
世阿弥が述べる「花」とは、あるがままの自然の力で咲き誇る「花」であり、人間が意図的に作り出すものではありません。
その「まことの花」を咲かし続ける為に大切なのが、「初心忘るべからず」なのです。
まことの花とは何か?
「初心忘るべからず」を思い出す上で、人生には3つの時期があると言うことです。
世阿弥が記した原文の3つの時期をご紹介します。
しかれば、当流に、万能一徳(まんのういっとく)の一句あり。
初心忘るべからず。
この句、三箇条の口伝あり。
是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず。
・是非の初心とは
是非の是とは、「是(ゼ)とする」という使われ方で、正しいという意味です。
是非の非とは、「非(ヒ)とする」という使われ方で、正しくないという意味てす。
つまり、正しい・正しくない、上手・下手、良い・悪い、など比較対象して生じる価値判断に、埋没してはいけないという事です。
人間は何事も、少し上達すると、自分は他の人間より優れていると奢りの心を生んでしまいます。
しかし、そうような気持ちになると「まことの花」失われ、芸の道を探求することはできません。
この場合の初心とは、他人と比較したり、周囲の評価に惑わされてはいけないと言う意味です。
・時々の初心とは
仕事でも、スポーツでも、趣味でも、ある程度長く続けていると、その道で自分は立派になったと思うことがあります。
人間はある程度一つのことを極めていくと、第一人者なったり、有名人になったり、表彰されたり、社長になったり、お金持ちになったりします。
世間一般の人は、何か「立派な人になる」ことを人生の目標としており、偉くなったと感じる時が、その時を「時々」として示しています。
しかし、世阿弥が言う「まことの花」とは、「生涯が終わるまで咲き誇る花」なのです。
そう考えると、一生の間の「時々」で、「まことの花」が咲くものではありません。
つまり、「時々」で、世間から評価され「立派な人物」「優秀な人」「親切な人」てあることが「花」だと勘違いしてはならないという事です。
・老後の初心とは
人間は歳を取ると、自分の過去の栄光にすがるようになります。
自分は、若いときから努力して業績や実績を残してきたとして、その過去の評価された実績で、自分は立派な人物だと考えます。
しかし、そうした過去の栄光や評価も、「まことの花」ではなく、むしろそうした過去の栄光にすがると、「まことの花」は失われます。
そして、「まことの花」を生涯追求し続けるには、「初心忘るべからず」として常な自分を純真に保ち続け、謙虚に生きることが大切なのです。
このように「まことの花」を咲かす為に、「初心忘るべからず」が必要だと言うことになります。
世阿弥とクリシュナマチャリア師
世阿弥の「まことの花」の価値観は、ヨガで言うところの「アートマン(自己の本質)」と同じことです。
ヨガでも、アートマンを追求する上で大切なのは、「良い・悪い」や「善・悪」と言った相対的価値観から脱却するとこが大切であると説かれます。
そして、近年世界中で広がっている近代ヨガの礎を作ったクリシュナマチャリア師の考え方も、また世阿弥と同じです。
クリシュナマチャリア師は、100歳まで現役でヨガの指導をされました。
その弟子にはアシュタンガ(ヴィンヤーサ)ヨガの創始者パタビジョイス師、
アイアンガーヨガの創始者アイアンガー師、クリシュナマチャリア師の孫のデシカチャー師などいます。
謂わば近代ヨガの創始者という存在でしたが、生涯ヨガの道を探求し続け、「まことの花」を追求した人です。
クリシュナマチャリア師は90歳を過ぎても、午前一時に起床してヨガの練習を日課として課していたほど、生涯ヨガの道を探求していました。
そこまで修行をしても、クリシュナマチャリア師は自分のことを、「サーダカ」として公言していました。
「サーダカ」とは、まだ悟りに達していない修行者のことをいいます。
これに対して、悟りに達した人を「ヨギ」といいます。
日本では、気軽にヨガをやっている人を「ヨギ」と言いますが、それは誤りです。
クリシュナマチャリア師は、ご自分を死ぬまで「サーダカ」であると言い、まだまだ学びの徒であると公言しておりました。
そんなクリシュナマチャリア師が晩年に撮った写真で、アンジャリムドラーをしている姿があります。
ムドラーとは、手の形で自分のエネルギーを表現するもので、アンジャリムドラーとは両手を合掌して、中央を膨らませて「つぼみ」を表現します。
つまり、自分はまだまだ「つぼみ」の存在であり、「まことの花」を咲かすことができない未熟な存在であることを示しています。
クリシュナマチャリア師の晩年になっても、ヨガを探求し続けた原動力は、正にこの謙虚さ故のもと思います。
常にこうした偉大な先人達の存在忘るべからず、そして初心忘るべからずの気持ちを常に抱き続けたいものですね。
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